おうち物語 〜菜の花の処方箋〜

「城山に咲く桜を見るまでは死ねない。」
その方(90代女性)の口癖だった。笑顔が素敵で、話し好きな人だった。若い頃に旅した海外の話、季節ごとの花の話が特にお気に入りで、訪問診療のたびに楽しそうに語ってくれた。

家は城山のふもと。桜の季節が来れば、窓からその美しさを眺めることができる。けれど神様は残酷だった。体は桜の開花に間に合わない速度で衰えていった。

老衰で寝たきりになり、薬を飲むことさえ難しくなった。医師としての無力感だけが膨らんでいく日々。
そんな中、訪問診療に同行していた尾崎看護師が、小さな紙袋を差し出してきた。そこには早起きして摘んできた菜の花が入っていた。

顔元に菜の花を近づけると、目を閉じていた彼女がそっと目を開けた。そして一度ゆっくりと深呼吸をして「いい香りだね」と微かに呟いた。その声と表情に、私ははっとした。

この方に必要なのは、私の処方する薬ではなかった。尾崎看護師の『菜の花の処方箋』こそが、どんな医療よりも優しく穏やかな空気を作り出してくれた。薬では得られない笑顔が、そこには確かにあった。

~~~

それから数日後、彼女は家族に囲まれながら静かに息を引き取った。その知らせを受け、北川町の往診を終えた私は城山を目指して車を走らせた。

途中、一枝だけ早く咲いた桜を見つけた。菜の花を届けた尾崎看護師を真似て、その桜を摘んで彼女の枕元に添えた。涙は止まらなかったが、不思議と私の心は穏やかだった。

在宅医療は薬や医療行為だけではない。
その人が生きてきた時間、重ねてきた思い出、そして今この瞬間の空気に寄り添うこと。
菜の花と桜が、その大切さを教えてくれた。

ある在宅医療のおうち物語。

※プライバシー保護のため時系列等の個人情報を編集しています